公益財団法人
西郷南洲顕彰会

名前のエピソード

生い立ち

斉彬公との出会い

錦江湾入水

奄美での日々

 島津久光は、大久保の計画に賛成し、率兵して上京することに。だが、この計画を実現させるためには斉彬の腹心であり、公卿や諸藩の大名に知友の多い西郷が必要だと考えて大久保は、久光に大島から西郷を帰藩する必要がある結論を出し、召還命令が出された。

 西郷は計画に反対していたが、大久保に説得され久光上洛に参加することに。
 久光から九州諸藩の形勢および視察をし、下関で待てとの命を受けて、文久2年(1862)3月13日、村田新八を伴って鹿児島を出発する。

 下関に着き白石正一郎宅に入ると、そこには筑前藩士・平野国臣と薩摩藩士・森山新蔵が待ちうけていた。平野から「京・阪地方に決死の志士たちが集結して、西郷をあてにしている」と聞き、即夜の船で大阪へ急行。
 激派の慰撫につとめた西郷だったが、下関に久光が到着しており、西郷が下関にいないことに激怒した久光は、大島遠島に処罰することを決めた。

 西郷は徳之島へ、村田は喜界島へ島流しとの命が下された。

 
 

 徳之島に着いた西郷は、役人の世話で船着場の近くにある百姓の家に数日仮住まいし、間切横目・琉仲為のすすめで仲為の住む岡前村の百姓・松田勝伝の家へ移った。家族は勝伝夫婦と祖母の三人暮し、そして仲為の息子・仲祐と親戚の政寿の子・義志孝の二人の少年が朝夕西郷に付き添って、身のまわりの世話をした。この時の西郷は、罪人であったため役人の監視下に謹慎していなければならなかった。
 鹿児島へ帰ってきた久光は、西郷に対する罰が軽いのに憤って、沖永良部島への遠島を下す。

 西郷は沖永良部島に着いたが、代官所敷地内に急に造りだした牢獄ができてなかったため、船牢の中で過ごした。2日たって牢獄が完成し、代官・黒葛原源助は付役の福島清蔵、間切横目の土持政照を連れて西郷を出迎えた。
 西郷に乗ってもらおうと乗馬をひいてきたが、牢獄までの約4キロを歩いて行った。

 牢獄の広さ2坪余、にわか造りの建物であり、戸も壁もなく四寸角の格子でうちめぐらしてあるのみだった。
 西郷の顔色の衰えは日に増して目立って、とても健康は保たれないと思った土持は、黒葛原代官に相談して牢獄の改造を定め、私費を投じて新築にとりかかった。その間の西郷は、土持宅に預けられ起臥してもらうことも許された。
 元治元年、吉井友実・西郷従道・福山清蔵が藩の外車蒸気船・胡蝶丸で迎えに来られた。
 2月22日に出帆した船は、途中で大島に寄港し、愛加那を訪ねて4日滞在した後、喜界島へ向かい村田を迎えに寄って帰藩した。